
小学5年生、地図帳を開いて日本と似ている国旗があることを発見した。
以来、その旗を忘れたことはなかった。
大学2年生、海外に出てみようと思ってGoogle mapを広げるとまた同じ国旗が目に留まった。

「パラオ」である。 パラオの国旗は、青い海に浮かぶ黄色い満月。

日本の国旗は、清くけがれのない気持ちを表す白地に太陽。
「あまりにも似ている、何か歴史的な関係があるのではないのか」と、ずっと心にに残っていた。
インターネットで検索すると、沢山の記事から知る事実があった。
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日本は、第一次世界大戦後1920年に国際連盟による委任統治領として、ドイツからパラオを施政下に置いた。その後、日本はパラオに、道路・水道・電機などのインフラを整備し、学校・病院・工場などの生活基盤を作った。1935年頃にはパラオ住民の人口よりも多い、5万人の日本人が移住したそうだ。1940年には、“東洋一”と称す飛行場までも完成させた。
1939年に第二次世界大戦が始まると、1944年にはこの飛行場を目当てにパラオのペリリュー島がアメリカに狙われることとなってしまった。米軍はここを拠点に、アジアでの戦場を広げていこうとする狙いがあった。米兵4万8千人に対し、日本兵1万人。アメリカは2~3日で片付くだろうと、高を括っていた。しかし、中川州男率いる日本軍は、74日間という耐久戦に持ち込んだ。
中川氏には用意周到な戦略があったという。1つは、島の地下にある豪と豪を掘って繋ぎ、地下複郭陣地を作成。これで、米軍の攻撃を最小限に留める。2つ目は、「日本バンザイ」を叫んで敵陣に突っ込む自殺行為を禁止。限られた兵力を失わせなかった。
その裏にはもう一つの物語があった。パラオ住民も自国が戦地になることを察し、日本兵と一緒に戦うと申し出たという。しかし、中川氏はパラオ住民に叫ぶ。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
さらには、パラオ本島へ強制疎開させる船まで用意したのだった。今まで日本は味方だと思っていた彼らに、裏切られたと意気消沈したという。しかし、日本兵の本当の意図はそうではなかった。ペリリュー島に米兵が降り立つ前に、パラオ住民を避難させ、自分たちは自ら矢面に立とうとしたのだった。その証拠に、船で住民が島を離れたのを確認すると、日本兵が歌を歌いながら、笑顔で手を振った。
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要約すると、こんなところだろうか。
どこまで本当で、どこから作り話なのか。当時を見ていない私が判断できることではない。しかし、同じような記事が何百、何千と人々の文章として記されているのであれば、それが事実であったと解釈しても問題はないだろう。
20年以上も前からなぜか気になっていた、パラオと日本の国旗のなぞを突き詰めることができた気がしている。
あるウェブサイトには、こんな記事もあった。
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パラオの国旗は、日本の国旗を模して作られた。日本に対しての礼儀から、中心にある「日の丸」の位置から、わざと中心をはずして「月の丸」をデザインしたという説もある。
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パラオの国旗は1994年独立時に国民の公募によって決定された。考案者のジョン・ブロー・スキーボン氏は、日本の国旗に寄せたという説を、完全に否定したそうだ。しかし、歴史的背景を辿ると意図せずとも二国に繋がりがあることを疑わざるを得ない。
私はパラオに行ったことはない。しかし、目に入って来る情報たちが、行きたい欲を後押ししてくる。
戦後80年の今、パラオ住民で当時のことを語ってくれる人々がどれだけいらっしゃるかはわからない。しかし、ネットで調べられる日本軍のペリリュー島での出来事や国旗の成り立ちなど、本当のところを自分の耳で聞いてみたい。
さらに、現在のパラオにも日本との繋がりを強く感じられるものがあるらしい。 日本歌謡を参考に作られた音楽ジャンルがあったり、カリントウやあんぱんなどの日本食が作られたりしている。特に、言葉にはそれが顕著に現れているらしく、日本語起源のパラオ語は、なんと471語もあるという。「アクシュ」「オモイデ」「タスケル」「ツカレル」「ワカレ」など、日常でも使われる言葉が飛び交っているようだ。私と同世代の人々も使っているのだろうか。日本から送られたヒト・モノ・ブンカ・コトバが、戦後80年の今もパラオの国で生きている。
ペリリュー島の戦い以降、パラオで戦争は起こっていない。そのため、パラオで「戦争」と言えば、第二次世界大戦のことを指す。また、その後もパラオで軍隊は所有せず、1994年以降、国民投票によって国防上と安全保障は米国に委ねる決断をした。現在の国の主な収入源は豊富な自然環境を活かした観光業や漁業となっており、日本と米国からの経済援助を受けて経済が成り立っている。これを聞くと、過去の戦争で味方と敵であったとの関連も根深く、何だか不思議な感覚がある。日本はまだしも、米国に頼るのはなぜなのだろうかと、聞いてみたくなるのだ。
私が今見ている世界は、歴史を紐解くことをしなければ見えてこないものがある。ただ、外から得た情報だけでは多くは語れない。インターネットに溢れている情報から、真実を見極める程の鋭いセンスもない。だからこそ、現地へ行って自分の五感を研ぎ澄ませて得るべきことがあるのではないか。
NGO職員として、他国へ足を踏み入れる機会を頂けていることは、当たり前ではない。さらに、ADRA Japanの活動は多くの方々からの支援の上に成り立っていることを忘れてはいけない。現地の人々と話せる1分1秒から得られた真実を、自分の言葉で表現し、多くの方の目に留まるよう、発信していくことに大きな意味があると感じている。
戦後80年を題材に、パラオの歴史的背景を調べていたら、私の人生で訪れたい場所リストの上位にパラオが食い込んだ。この執筆を通じて、まだ知らない国「パラオ」に対する親しみがさらに膨らむことになった。
文責:渡辺 陽菜
