【戦後80年】父との会話

<終戦生まれの記憶>

「戦後80年について語ってくれとは言われても、その年に生まれた身だからねぇ…」

電話越しにインタビューの概要を伝えると、父は困ったような口調で応じた。

日本では終戦年として知られる1945年に、父・邦博は北海道函館市で産声をあげた。戦争真っただ中、4月の出来事である。そして、3か月後の7月14日、15日には、彼の故郷もアメリカ軍による空襲に襲われ、戦争の渦に巻き込まれた。

市街のサイレンがけたたましく鳴り響く中、5人の子どもを持つ石橋家も急いで防空壕へ避難した。だが、生まれてわずか3か月しかたたない幼子は、あろうことか家に置き去りにされている。それに気づいた母親が慌てて家に戻り、赤ん坊を抱えて命からがら防空壕に戻ったという。無論、0歳児にこのような戦争の記憶はなく、戦時中のエピソードとして石橋家で語り継がれているため、知ることになっただけである。

そのため、戦時中を知るものではないということで、戦後80年について語れることはないとのことだったが、話を進めていくと、戦争を経験していない彼の人生に、思わぬ爪痕が残されていた。

<戦後最大の心配事、それは食糧難>

「そういえば、20歳くらいまでは、腹いっぱいご飯を食べた覚えがないな」と、昔を思い出すかのように、父は呟いた。

戦後20年といえば、1964年の東京オリンピックが終わった次の年である。日本においては、高度経済成長期で飛ぶ鳥を落とす勢いだった時期だ。彼が10歳から20歳までの間、その恩恵に預かってもいいはずだ。しかし、この発言と照らし合わせると、一般人がそれを感じることができるようになるまでは、10年以上を要したことになる。

「うん、満腹になるまで食べられた記憶はあまりないね。常に腹八分だった。うちは7人家族で人数も多かったしね」

そう言いながら記憶をたどるように、当時の食事情を語り始めた。

「母は、釜にご飯がほとんどなくても、『食べなさい、食べなさい』といって子どもに食べさせる人だったね。時には家族にだけ食べさせ、本人は水だけ飲んで、お腹を満たしていた、と後で聞いたよ。しょっちゅう水を飲んで、『私は水が大好きなんだ』と言っていたけれど、それだけの理由ではなかったみたいだね。ほとんど食べないから寝込んでしまい、医者に栄養失調だと怒られるくらい自分を犠牲にしていた」

邦博の母、志げを含むあの時代の主婦が、戦後を生きる上でもっとも切実だったのは家族、特に子どもに「どう食べさせるか」である。物資が不足している状況の中、限られた資源を公平に分配するために、国は配給制を導入した。そのため、満足に食品が手に入る年代ではなかった。

農家との“コネ”がない限り、白米だけのごはんを食べることはなく、石橋家では大抵白米に麦や外米を混ぜ、かぼちゃやイモ類、大根の葉などを炊き込んだ混合飯が常食であった。おかずはごくわずかしかなく、どうしても副菜がない時は、味噌をそれにみたてて米を食した。現代では捨ててしまう大根の葉も、味噌汁の具になり、余ればゆでて塩漬けにして保存、ビタミンCを補う手段とした。たくあんやニシンの糠漬けも季節の保存食として仕込むなど、志げは家族の胃袋を守るために知恵を絞った。

函館といえば漁業が盛んな地として知られるが、魚類は親戚が水産会社に勤めていた関係で、季節によっては横流ししてもらうこともあった。ただ、食品関係の会社に勤めていれば常に横流しがあるわけでもない。邦博は中学時代からイカの燻製工場に働きに行くこともあった。とはいえ、賃金を受け取っても、燻製が食卓に並ぶことはなかった。

「小学校の給食ではコッペパン、ビタミンAやDを含む『肝油』を小指の先ほど。そして汁物が出されていたよ。中学校に上がると給食はなかったから家からお弁当を持って行ったね。でも、よく海苔を敷いて醤油を垂らしただけの白米を弁当にしていたことを覚えている。ご飯はあっても、おかずがないのが当たり前だったんだ」

ご飯と海苔と醤油。色とりどりのお弁当しか経験のない私にとって、この発言には驚かされたが、お弁当を所持して学校にいけるだけまだましで、お昼ご飯を持ってくることが叶わない子どももいる時代だったそうだ。 戦争が終わってから、13年以上も経っているのに、である。

父(左端)が所有する、一番古い写真。
5歳の時に、初めて浴衣ができたのでズボンの上から着て、記念写真を撮ったときのもの。

石橋の家の食事情は貧しいものであった。しかし、ひもじかったという覚えはないと言う。母・志げが愛情をこめて食事を与え続けた成果であろう。その甲斐あってか、5人の子どもはほとんど病気をしなかった。末っ子の女児がかろうじて数回病院に行ったことがあるようだが、他の4人は一度も医療センターの敷居をまたいだことはない。母の献身的な給仕が、子どもたちの健康につながったのだろう。

<戦争を感じさせたものは>

生活環境において、戦争を思い出させるものはあったのか。親族から戦争の話はきかなかったのか。そう問うと、ん~、とうなりながら、ひとつずつ言葉を紡ぎ出した。

「戦争の話を聞いたことは、なかったかな。父の薫も兵に駆り出されたが、色盲かなにかで、すぐ家に返された。父方は8人兄弟、母方は11人兄弟。その半分は男で全員兵役にでたけれど、幸いなことに皆無事に帰ってきたよ。ただ、戦争の話はしなかった。小学校に通うようになってからも、先生から戦争の話は聞かなかった。大学卒業後、3年ほど函館市内の小学校で教師をしていたことがあったが、戦時中にあった天皇崇拝をする風習なども、語る人はいなかった。

もしかすると、禁句だったのかもしれないが、それよりもどうにかして食べ物を手に入れ、生きぬくことで精いっぱいだった。過去は過去、未来に向けて生きていこうという力の方が大きかったのかもしれない」

それでも子どもながら戦争のことを思い出させることはあった。

「物心ついた時から、春になると五稜郭に花見をしにいくことが常だった。そういう人が集まるところに、戦争から帰ってきても職にありつけない人たちが来ていたんだ。10人くらいかな。手がない、足がない人が立っていたり、座っていたり、中には白い服を着てハーモニカを吹いていたり――花見をしに来ている人たちにお金を恵んでもらうためにね。

とても痛々しかった。

その人たちを横目に素通りするのが、嫌だったのを覚えている。なにもできない自分への罪悪感だろうね」

五稜郭正面入口へ続く橋。ここを通らなければ中に入れない。
渡わった先に戦争で足や手のなくした人たちが白衣を着てハーモニカを吹き、投げ銭を待っていた。

函館もアメリカ軍の標的にされ、空から爆撃されている歴史がある。市内にそのような痕跡はなかったのか、疑問に思ったが、幼かったからか、はたまた復興が早かったからか、市内に戦争の痕を見ることはなかったとのことであった。

<平和とは>

戦争を知らない世代に一番伝えたいことは何か。その問いに、しばらく考えてから、父は言葉を絞り出し、一言ひとこと噛みしめながら、こう答えた。

「戦争が起きたら、寝るとこ、食べるとこ、お風呂もなくなる。不自由のない生活が当たり前でなくなる。今を感謝して生きよ」

その言葉に、昔、父から教わった落語の一節を思い出す――


「寿限無寿限無、五劫の擦り切れ、……食う寝るところに住むところ……」

名前に込められた長寿を願う言葉の中には、「食う寝るところに住むところ」という、命が満たされるための最低限の条件がある。

これが、平和である。

それは、数年前にミャンマーやジンバブエの子どもたちにインタビューした際に、答えてくれた「Peace」の定義であったが、邦博も同じであった。

寿限無にでてくる長寿を願う名の羅列は、単なる縁起言葉ではない。その中にある「命の根っこ」が満たされてこそ、長生きする意味がある。食う・寝る・住む──この三要素こそ、人が平安のうちに生きられる本質であり、失われれば命の灯は揺らぐ。

 終戦から80年になろうとしている。だが、戦争が終ろうとも、その影響を少なくとも20年、父は受けてきた。否、全国では今も戦後処理は続いており、現に日本の各所で年間1,800件の不発弾処理が行われている。宮崎空港では昨年、旅客機が通過した2分後に不発弾が爆発し、あわやの大事故につながるところだった。沖縄では年間500件の爆発物処理を行い、すべての不発弾を処理するには今後70年から100年かかるとみられている。何事もなく爆破処理ができればよいが、今年の6月には作業にあたっていた自衛隊員4人がけがをした。一世紀近く前に戦争は終わっていても、人々の生活に長く影響が残っているのだ。

それを無視しながら、今も無実な人を巻き込んだ紛争が世界では続く。

 「食べる有難さ、寝る温かさ・・・それを噛みしめないといけない」

 ウクライナ、ミャンマー、ガザの状況を憂いでいる邦博は、そう答えた。それは、戦争の余波を受けたものにしか発することが許されないセリフのように感じる。日本人は戦いに巻き込まれていない今の状況を、日々のルーティンのように「飲み込んで」いないだろうか。戦後80年を機に、多くの人々が「咀嚼」をすることにより、日本の平和が維持される。そう信じたい。

(文責:石橋 和博)

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