
時刻は午前8時半。ハンドルを握り、見つめるフロントガラスの先には、濃緑の森が広がる。南国の長い夏の間、太陽光を存分に浴びて生い茂った樹々は、残暑に入り柔らいだ朝の陽ざしに、ほっとしているかのように見える。空は雲一つない。快晴だ。私は後続車がいないことを確認し、緩やかなアスファルトの坂道を、ゆっくりと走った。カーブを曲がりながら、涙で視界が滲みそうになるのを、慌ててふき取る。
2025年9月13日、沖縄本島にて。私は、歴史の痛みに触れていた。
前回この地を訪れたのは、1年半前。家族旅行の時だった。沖縄と言えば、美しい海よりも先にひめゆり学徒隊や米軍基地が浮かび上がる私だが、幼児2人を連れての平和関連施設への入場は、周りの迷惑になりかねない。この時は、ひめゆりの塔で子ども達と手を合わせ、慰霊と平和を祈念するに留まった。しかし、今回は出張なので、子どもはいない。私は、与えられた職務(小中学校での講演)を全うすると共に、日本国民として、人道支援従事者として、また、世界の平和を願う一人の人間として、沖縄戦について学ぼうと思い、当地を再訪した。
到着2日目、最初の仕事である小学校での講演を終えた私は、広報担当の石橋と車に乗り込み、次の目的地である名護市へ向かって北へ走り出した。時刻は午前11時過ぎ。次の講演は夜だったため、1時間の移動時間を含めても半日は空いている。平和関連施設へ行くならこの時だと思い、助手席で検索を開始した。目当ての場所は、一か月前に同僚が旅行で訪れたと言う美術館。偶然にも、講演した小学校から10分の距離であった。

訪れたのは、沖縄県初の私設美術館である、佐喜眞美術館。1994年に開館したこの施設は、「世界で最も危険な基地」と呼ばれる米軍普天間基地に食い込むように佇んでいる。

それもそのはず、美術館ができる前まで、ここはアメリカ軍の土地だったのだ。館長の佐喜眞道夫氏は、1984年に画家の丸木位里・俊夫妻と出会う。当時夫妻は、沖縄県内で「沖縄戦の図」を展示する施設を探していたが、受け入れ先を見つけられていなかった。佐喜眞氏の両親は、戦争の影が近づいてきた頃に熊本に疎開した。そのため、自身は熊本で生まれ育ったものの、両親から聞かされた美しい沖縄の話、終戦9年後の沖縄訪問などを通して、沖縄への特別な感情を持ち続けていた。そんな折に出会った丸木夫妻。絵画収集が趣味だった佐喜眞氏は、「沖縄戦の図は、沖縄に」という、二人の強い希望を叶えるため、美術館の設立を決意した。(丸木夫妻については、こちらの記事でも紹介されている。(【戦後80年】1995年のノーベル賞 パグウォッシュ会議 / 丸木位里・俊『烏』/杉並区のご婦人たちへ)
開館に至るまでには、10年の歳月を要した。「もの想う空間を作りたい。」という構想から始まり、建築家と語り合いを重ね、美術館の方向性をつくりあげていった。コンセプトが定まったところで、建設地を探したが、売り手市場の不動産業界だ。交渉の度に土地の値段は吊り上がり、価格、面積、立地など、条件に合う土地を見つけ出すことができず、3年を無為に過ごした。しかし、調べていくうちに、佐喜眞家には、戦後アメリカ軍に接収された土地があることを知る。米軍基地内にあることを除いては全ての条件が揃った土地の返還を求め、佐喜眞氏は那覇市の防衛施設局で、手続きを開始した。
当初から、日本、アメリカ両政府で様々な承認が必要であるため、返還には長期を要することが告げられていた。進捗を尋ねても、「アメリカ軍が返還をしぶっている」と応じられ、具体的な動きがないまま、3年半が経った。日本政府の対応に業を煮やした佐喜眞氏は、自身のコネクションを駆使し、基地の不動産管理事務所長と面会を取り付けた。
「美術館ができたら宜野湾市はよくなりますね。我々は問題ありません」。アメリカ側への直談判により、翌年、土地はあっさりと返還された。ことを進める気がなかったのは日本政府だったということを、佐喜眞氏はこの時知ったのである。

同日の夕陽が階段に差し込むように設計されている。
苦労の末会館した佐喜眞美術館の常設展は、前述の「沖縄戦の図 全14作」だ。小さいものでも1.8m四方、シリーズ名そのものでもある「沖縄戦の図」にいたっては、4.0m×8.5mもある巨大な作品だ。別室の足音が聴こえそうなほどの静寂の中、私は、一枚、一枚、ゆっくりと作品を見つめた。赤や青を交えつつ、主に濃淡のある灰色の、水墨で描かれた惨劇。死人、生者を問わず、描かれた人間の殆どには、瞳がない。空っぽの目から伝わるのは、恐怖、絶望、悲嘆。黯然銷魂とした沖縄の人々が、まざまざと描き出されていた。私は、解説と絵を照らし合わせながら、沖縄戦で何が起こったのかを学んだ。
日本兵による略奪と虐殺、米軍による民間人の保護、140人の避難者のうち、集団自決により83人が命を落としたチビチリガマ、そこからわずか1km先にあり、1,000人全員が助かったシムクガマ。足を進めるほど、当時の様子がリアルになっていった。一番広い第三展示室には、丸木夫妻が絵画を書くにあたり、インタビューに答えた老人たちのモノクロ写真も展示されていた。「ここに写っているおじぃとおばぁは、これ(目の前の絵にある状況)を実際に体験している…。」得も言われぬ感情が込み上げた。私は、丸木夫妻が手掛けた沖縄戦の絵本を購入し、次回は子どもと来館することを決めて、美術館を後にした。

せんそうというものがどんなにひどいもので、にんげんがにんげんをころしあうなんて
これほど世の中でいけないことはないということをみんなにかんがえてもらうため”に描かれた。
*絵本によせてより、丸木位里談
アメリカ側と日本側(軍人及び民間人)併せて約20万人余りの犠牲者を生み出した沖縄戦。今も、沖縄の畑や開発地からは、遺骨が出てくる。「この森の中で、今も眠っている人々がいる。」私は車の中で、そう考えていた。
その日の仕事を終えた私と石橋は、道路沿いの名もないビーチを訪れた。最初はスニーカーで白い砂浜に降り立ったものの、数分で、我慢できずに裸足になって入水した。適温で、心地良い。足元に広がる無色透明の水は、淡碧色からエメラルドグリーン、そしてコバルトブルーへと、遠ざかるにつれて変化しており、どこを切り取っても美しい。足だけ海水浴を楽しみながらも、私は眼前の絶景に、胸が締め付けられていた。沖縄の美しさが、80年前の惨劇と今も癒えない痛みを、増幅させているように感じたからだ。いや、悲惨な過去が、沖縄の美しさを強調して見せているのだろうか?いずれにせよ、戦争の記憶なしにして、沖縄は語れない。戦争と自然の陰陽相和が、今の沖縄を作っていることを、私はこの時初めて、深く心で理解した。

沖縄から帰った私は、まだ、子ども達に絵本を渡せていない。時期尚早というのは建前で、本当は、私の心の準備ができていないからだ。7歳の娘は、私の仕事内容を理解しているため、紛争や戦争のニュースを目にすると、報告しにくる。彼女がテレビで目にするウクライナ、ガザ、ミャンマーの戦争。それらの実態を絵本によって可視化する勇気と覚悟が、親としてまだ持てていないのだ。
先日、ハマスがイスラエルとの停戦に合意した。イスラエルは「勝利した」と言っているが、戦争に勝ち負けなどない。停戦合意が双方から守られ、人々の生活が再建されることを、切に願う。しかし、80年前の沖縄は、今も世界各地に存在し続けている。
佐喜眞美術館を訪れ、平和への願いが一層強くなった一方で、自身の親としての弱さも知った。次回の沖縄来訪は未定だが、そう遠くはないだろう。その時には子ども達と手を繋ぎ、丸木夫妻の絵を通して、歴史と向き合いたい。
文責:守屋 円花

