
潮の香りを携えて、遥か彼方から冬の訪れを告げる北風。一足先に感じた“寒さ”は、少し遅れて東京にやってくる。10月中旬にも関わらず、幸いな事にまだ雪虫は見かけていない。この地が銀世界となるのは、もう少し先のようだ。
飾り気のない直線のホームがいくつも横並びする。どこまでも続く線路が、北の大地の鯤鵬さを表しているようだ。隣の列車は、車輪が赤く錆びている。なんだか見ているだけで、吹雪の中でも走り抜けるような力強さを感じる。君たちはどこから来て、そしてどこに行くのだろうか。今回の旅が、自由なものであればと願うばかりであった。

空港と町の中心地を結ぶ列車から、大勢の観光客が遑遑と改札を目指す。建造されてから四半世紀近く経過しているにも関わらず小綺麗な駅舎を抜けると、そこには大きな広場がある。大勢のビジネスマンや観光客が駅前を闊歩し、幾許かの賑わいを生む。見知らぬ商業施設がいくつも立ち並んではいるが、駅ビルの標識を見る限り確かにここは北海道南端部で最も栄えた町、函館なのである。
15年ぶりの函館は、海外から訪れた人で溢れていた。聞き馴染みのない言葉が街を独り歩きする。かつて、青森からフェリーでこの地に足を踏み入れた時はこうであっただろうかと思い出す。遠くで汽笛が鳴り、彼らの楽しそうな笑顔に欽羨としながらも、少し哀愁を感じる。今の函館を知り、ホテルへと急ぐ。私には、明日の講演準備が迫っているのだ。

朝から降り続く雨は、当分止みそうにない。何とも幸先が悪い1日の始まりだ。朝食を確保するために街へ繰り出すと、見慣れたオレンジ色に縁取られた鳩のマークが目に付く。北海道のコンビニチェーンは、全国随一だ。ここに匹敵する程の、味とお手頃さを兼ね備えた店舗は存在しない。スーパーより安い総菜は、学生時代の貧乏バイク旅行で大いに活用した。今回もその恩恵に与る。

本日講演する小学校は、江戸幕府が築造した五稜郭から車で北に約15分。のどかな住宅街の中にある学校だ。当日は参観日にあたり、児童と保護者が一緒に防災減災講座に参加する。教員の指示に従い、列伍に体育館へ入場し先頭から順に着席していく。この学校では定期的にADRAから講師を派遣しているため、見知らぬ来訪者である私に動じない。児童達も慣れたものだ。手を取り合う3人を胸に示し、ロゴの力を実感する。
災害が発生した場合、自分事として捉えられるようにいくつかのワークを用意した。「災害が起きても、使えそうな物、食べられそうな物はおうちにありますか?」と問い掛けると、親子で顔を向き合わせ、肩を寄せ合いながらワークシートを囲み、家族内会議が始まる。電気が使えない場合、水が使えない場合、ガスが使えない場合など、あらゆるケースを想定して真剣に課題へと取り組む。
「缶詰を沢山用意しといた方がいいかも。冷たいままだと美味しくないからコンロもあったほうがいいよね。水があればスープも作れるよ。」
「お風呂に入れないと髪が洗えないし…嫌だから、ドライシャンプーを買っておこう。」
「うちは子供が沢山いるから、食料は多めに用意しときたいです。」
発表の時間には挙手が続き、それぞれの家庭環境を熟考した上で、様々な回答を聞くことができた。このワークには正解が無い。自身の身の上に起き得ると感じてもらうことが目的なので、多種多様な意見交換は、参加者同士にとって刺激になったのではないか。 充実した回であったと感じる。講演者としてはとてもやりやすい会場であった。

帰りの新幹線までまだ時間があるため、あてもなく街中を散策する。早朝のピークはどこにいったのか、一見さんで塞がれた通りは無く、閑散とした朝市でカニの営業トークが周囲に響き、勢いだけが”横歩き”する。
函館はとにかく坂が多い。そして、イギリスやロシア等各国の領事館があったことから、石畳やレンガ造りの建物が多く、ヨーロッパのような街並みを彷彿とさせる。日本にいるにも関わらず異国情緒を感じさせる景色は、まるで長崎にいるようだ。千鈞な車体に鞭を打ち、縦横無尽に走り回る路面電車が、尚の事そのように感じさせるのかもしれない。何より、猫が多いのも同様である。

函館駅を離れ20分程歩き住宅街に入ると、そこは猫の街であった。坂道を上った先にある世界は、猫と海を一望できる秀峰だ。時折見かける彼らは、遠くからじっとこちらの様子を伺う。飼い猫なのか、外猫なのか、どの子も艶やかな毛並みを纏い、ふくよかな腹部を携える。どこか上品な雰囲気を感じさせるその佇まい。完全な野良猫は少ないのかもしれない。

猫は孤高な存在である。決して人に媚びず、人間に遜らない。港町のヒーローである彼らは、今日も自由に息をする。私の様なよそ者を感じ取る力は”猫一倍”長けており、常に5メートルという一定の距離を空け、こちらを三日月の様な目でじっと見つめる。尾を地面スレスレに垂らし、いつでも逃げられる準備をしていた。“間”を読み解かなければ、初見では触れる事が叶わない。
“間”を読む必要があるのは、何も猫との間だけではない。人間同士でも同じだ。アメリカの文化人類学者エドワード・T・ホールは、人と人とが無意識に取る物理的な距離感で信頼関係が測れると提唱した。極めて親しい者同士であれば、手が触れる事のできる0~45センチの距離間を保ち、仕事や社会的な関係であればもう少し距離があり1.2~3.6メートル程の“間”が存在する。もちろん、対象人物との関係性や個人のパーソナルスペースの広さによっても変位するのだが、日本人はこの見えない境界線が比較的狭いのだそう。通勤通学時間帯の電車やバスを体験すると、その理由が分かる気がした。

私たちの仕事は、人と人との信頼関係で成り立っている。いや、全ての仕事でも同様のことが言えるだろう。寄付者・支援者・裨益者、様々な立ち位置からの目線を俯瞰して業務を進めていかなければならない。無限に存在する選択肢から、正解へと近づくために僉議して、一つの糸を手繰り寄せる感覚は慣れないものである。これが正しい選択だったのかと不安が常に付きまとう。もう少し関係性を煮詰めれば、より良い選択が取れたかもしれない。すぐに結果が出ないからこそ、尚更憶念になる。一昼一夜には妙諦に辿り着かない、人道支援という業種の常なのだろうか。過程を少しずつ重畳して見える先は、絶景か、それとも沖虚な下り坂か。函館の坂道に未来の行く末が重なることを願うばかりである。
(文責:三牧晋之介)

