【戦後80年】戦争を生き抜いた祖父母からの手紙 

 私はそんなにせっかちだったのか。指でびりびりに開けた封筒を見るたびに思う。受け取ってから36年。こんなに長く大切に持つのなら、時間を惜しまずハサミを取りに行けばよかった。しかし当時は、早く読みたくて仕方なかったのだ。自分の知らない戦争のことが書かれていると思うと、ドキドキして落ち着いてはいられなかった。 

祖母からの手紙

 一通は祖母から、もう一通は祖父から別々に届いたもの。小学校6年生の夏休み、「おじいちゃん、おばあちゃんに戦争体験を聞いてくること」という宿題が出され、宮崎に住む2人にハガキを送ったその返事だった。 

 先に届いたのは、祖母セツからの体験記だ。ボールペンでサラサラと、原稿用紙のマス目を無視して流れる文字がいかにも大人っぽく、小学生の私にはまぶしく新鮮に見えたのを覚えている。 

 難しい漢字には、おばあちゃんの字とは似つかない子どもの筆跡で、ちいさく読み仮名が振られている。母に尋ねながら、少しずつ読み進めたのだろう。「ちょうへいせいど(徴兵制度)」「きょうれん(教練)」「かんぶこうほせい(幹部候補生)」など、鉛筆書きが並んでいる。しかし、書かれている内容は、何度読んでも読み慣れない。 

 「おばあちゃんの兄さんも、高等学校を出て銀行員になっていましたが、第二次世界大戦のはじめにもなった日中戦争で召集令状を受け、二十四歳の若さで小隊長として北支(中国の北部)で戦死しました。 

 当時の悲しみは、五十年以上たった今でも胸が締め付けられます。私たちの母さん、つまり、あつ子たちのひいおばあちゃんは八十八歳で死ぬまで戦死した息子を想って涙を流さぬ日はありませんでした」 

 手紙を読むまで、祖母に兄がいたことも知らなかった。「お兄さんがいたんだ」と思った次の瞬間に戦死したと書かれている衝撃は大きかった。私自身、母となった今は、読むたびに涙が出てきてしまう。 

 続く文には、戦争の影が、若かりし頃の祖母の生活をどう変えたかが記されている。学生も勉強どころではなくなり、特攻隊を志願する人が増え、若い人が次々と死んでお国を守った…。淡々と書き連ねてはあるものの、友を失っていった悲しみが、その筆致にはひたひたと漂っている。 

「まだ若い娘だったおばあちゃん達は同じ年代の大学生が黒い学生服に召集の赤いタスキをかけ隊列をくみ、銃を肩に行進した姿が目に焼き付いてはなれません。ちょうど秋の頃で野には彼岸花が真っ赤に燃えていました。今でも赤いタスキと彼岸花が重なって秋にはあの悲壮な光景が目に浮かびます」 

 私自身はその様子を見たことがないはずなのに、数年前に、田園景色の中に群れ咲く彼岸花を見たとき、私の脳裏にはこの情景がはっきりと頭に思い浮かんだ。生きて会うことはもうないと思いながら同年代の仲間を見送った瞬間は、悲痛哀切の極みだっただろう。 

 次第に空襲がひどくなり、グラマンという戦闘機に空から狙われたこと、家を捨て山奥に逃げたこと、着るもの食べもの、みな不自由で、ひもじさをこらえたこと。そしてついに、疎開先で玉音放送を聞いたときのことが続く。 

「まるで魂がぬけた様でしたが 半面とにかく空襲がもうないのだと 空襲の目じるしにならぬ様 電灯にかけてあった黒い布をとった夜、電灯だけが妙に明るく ぼうぜんとした目にまぶしかったのを昨日の事のように覚えています」 

 まるで映画を見ているような気持ちになる。ドラマか何かで見たシーンに祖母の姿が重なった。 

 そして、祖母の手紙はこのように締めくくられる。 

「五十年前の悪夢のような時代を思うにつれ平和の尊さをつくづく思います。現代の若い人達が喜々として学び、遊ぶ姿のかげには、おじいちゃんおばあちゃんたちの年代の多くの人々がお国のために死んでいった事柄があります。その人たちの死を犬死とせぬ様、あつ子達若い人々が目も心もしっかり見開いて、世界中の事をよく知り、世界中の人達と良く心を通い合わせ、仲良く交り平和な地球が保たれます事を念じて止みません」 

 この言葉は、その後ずっと、私の背中を押し続けている。 

 翌日には、祖父太郎からの手紙が届いた。祖母の柔らかな筆跡とは打って変わって、1文字ずつ、原稿用紙のマス目の通りに、大きくて真っ黒な字が並ぶ。タイトルだけが祖母の筆跡で「波濤(はとう)よりの生還」とある。「(荒々しい高い波間より救われて)という意味でばあちゃんがつけさせてもらいました」と添えられていた。 

祖父からの手紙

 祖父は、日本最後の船団33隻のうちのひとつ、「昌平丸」に武器、弾薬、食料、戦車などとともに便乗した。船の大きさについて詳しく書かれていたので、誇らしい気持ちもあったかもしれない。 

 船の写真が残っていないかとインターネットを検索したら、思わぬものを発見した。祖父の乗った昌平丸を攻撃した潜水艦の名前だ。さらに調べると、当該の潜水艦の戦闘詳報がでてくる。タイプライターによる216ページにわたる記録の中に「SHOHEI MARU」の文字を見つけたときは緊張で呼吸が浅くなっていた。 

 同記録にはこの日、ルソン島沖で、少なくとも32隻の船団を3時間半にわたって追尾し、駆逐艦「KARUKAYA」と貨物船「SHOHEI MARU(昌平丸)」に向けて魚雷を発射。艉甲板を吹き飛ばしたのち、爆発音や崩壊音に続いてひときわ大きな爆発を6時5分に確認、まもなく沈没とある。日付こそずれがあったものの、祖父の記録と一致していた。 

 だが、決定的な違いがある。米海軍の記録には、祖父が体験した死の恐怖も、実際に命を落とした人たちの息遣いも、ここから生還するまでに起きたことも一切書かれていない。本人にしかわからない貴重な記述を、なるべく原文のままここに紹介する。 

「四月十一日朝、フィリピンのルソン島の沖、マニラまであと六時間位の所で敵の攻撃を受け、魚雷4本が白波を立て船に向かって来ます。その中の1本が船の中央に命中。その衝撃で海中に投げ出された人もたくさんいます。 

 又、甲板に積んであった戦車自動車など海の中へ落ち船の中は上や下への大騒動。船は煙を上げてだんだん燃え上がって来る。船内に積んである爆弾弾薬に火が付いたら一大事です。船は機関部に魚雷が命中しているので身動きもできません。船に海水が侵入して、船首を海の中に突っ込み始めました。 

 退船命令とともに、便乗員は、次々に海の中へ飛び込みました。私は飛び込むやいなや無俄無中で一生懸命泳ぎました。 

 船から約千メートルも離れたところで船は一大音響と共に逆立ちになり、火柱が上がるや1、2秒の間に海中に消えてなくなりました。直後大津波が起こりそれに巻き込まれて死んだ人も多く、黒い煙だけが空に向かって上がっていきました。 

 あとは何一つありません。海中に投げ出された人、飛び込んだ人、怪我をしている人、戦友を求めて呼び合う声。しかし一面は血の海です。爆発と同時に死んだ人など、便乗者の大半は一瞬にして海中に消えていきました」 

 祖父の記録はさらに続く。 

「しかしこれからが大変です。海中でお互いに知人友人、戦友を求めて叫んでいます。そのうちにだんだん夜が近づいてきます。夜中の海は真っ暗です。ブイにすがっている友が眠らないよう、お互いに励まし合い、もっぱら寂しさと空腹と夜冷に怯えつつ、一夜を明かしました。 

 夜が明けると海上は昨日と打って変わり、ポカリポカリと人影があるだけ何一つありません。お互いに励まし合い、もっぱら寒さと飢えと疲れとそばに寄ってくるフカ(鮫)に怯えつつ、ブイにすがって海をさまよっていました。 

 私は国を出る時、父が鰹節を11本持たせてくれました。1日中海に入っていたので、鰹節は元の大きさに戻りました。幸いブイに座っている人が11名。1本ずつ分けて食べ合い元気を取り戻しました。 

 再び夜が来ます。昨日と同様お互いに元気付け合い、2日目の夜の長いこと。長い長い1日でした」 

 ここに出てくる鰹節は、たこ焼きやお好み焼きのうえで踊るパラパラした削り節ではない。祖父が持っていたのは、石のように固い、削られる前の鰹節だ。息子の無事を祈る親が、弾除けの意味も込めて用意したのだろう。実際に命をつなぐ鰹節となった。 

 翌日、祖父は助けられる。 

「(夜が)明けてくると、自分が生きているのが不思議なくらい、何が何だかわかりません。気が付いてみると、水平線上に煙が一本上り、一杯の船が私たちのところに向かって来ます。日本の船か敵の船かわかりません。死んではいけないと勇気づけ、船の来るのを待ちました。日の丸をつけた日本の船でした。 

 助かった嬉しさで胸がいっぱいになりました。船に救助されやっと正気をとりもどし、生きた気持ちになり、マニラの港に入港しました。 

 この船に救助された人は四十七名と聞きましたが、救助されながら心魂尽きて死んだ戦友も何人あったかもわかりません。実際は、20名くらいもいたかもわかりません。 

 マニラでしばらく休養してやっと人間らしい姿になり再度任地に向かいましたが着いたのは五月二十七日でした」 

 そして手紙はこのように終わる。 

「思えば終戦をジャワ島で迎え、四十六年を過ぎようとしていますが、今なお当時の様を思い浮かべ目頭があつくなり戦友の霊に有難く感謝申し上げています」 

 この二通の手紙は、私に平和の尊さを教えた。また、海に沈んだ爆弾戦車と引き換えにつながった命をもらったことを知った。 

 終戦から80年。私の祖父母も他界しているように、実体験として戦争を知っている人が日本では少なくなっている。しかし、世界を見るとどうだろう。戦争しか知らない子どもたちが、増え続けているのが現実だ。 

 私の祖父母が体験したことは、過去のことではあるが、過去にはなっていない。今も世界のあちらこちらで、爆音におびえながら眠る子どもたちがいる。その子どもたちが、戦争を知る最後の世代になれるよう、声を拾い、手を取り合い、平和を守り、育てていきたい。 
 
(文責:永井温子) 

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