
ひらひら、くるり。少し風の強い5月の午後、青空の下で我が家のこいのぼりが風にたなびく様を見ながら、子どもが1人増えるたびに、鯉を買い足してきたことを思い出す。「この青いのは長男ので、緑が次男。三男のときには、これより小さいのがなかったから中くらいのを買って、大きさ順に三兄弟ってことにしたんだよな…」。毎年似たようなことを考えて、そのあと決まって、3人の救われた命のことを思う。
長男は、生まれて数時間で呼吸不全のためNICUに搬送され、1か月ほど入院した。次男は妊婦検診で胎内での発育不全がわかり、しばらく私が入院して帝王切開。仮死状態で生まれたが蘇生処置のおかげで産声を上げた。三男は、新生児スクリーニングで先天性の異常が見つかり、投薬治療を受けた。妊娠・出産・子育てを通して、私は本当に恵まれている。これほどまでに守られて、子どもを産み、育てることができる国は、世界でも珍しい。
その日本で今、命の格差が起きている。日本に難民として逃れてきたアフリカ出身の夫婦のもとに生まれた子どもが、日本の健康保険の適用から外れ、医療費が高額になったことで、検査や手術をあきらめざるを得なくなった。2歳の双子が原告となり、「子どもの権利条約」に批准している国でありながら、医療を受けられない状態に追いやった日本の出入国在留管理庁に対して裁判を起こす事態になっている。日本の難民政策の限界と課題が、子どもの命をめぐる問題として表面化した深刻なケースだ。
教育については、日本に住んでいる実態があれば、小中学校に入学できる。これは、子どもの権利条約と日本の法律がうまくかみ合っているから実現できている対応だ。医療については、法が追い付いていない。「すべての子どもの命が守られ、もって生まれた能力を十分に伸ばして成長できるよう、医療、教育、生活への支援などを受けることが保障される」という当然あるべき権利が、定められているルールと合致していないという理由で妨げられている。
法に定められていないからと、生まれつき医療を必要とする子どもが、、命の危険にさらされるのは、正しいことなのだろうか。3割負担なら、両親は出費を覚悟で検査も手術も受けようと予約をしていた。合法的に働くことができない中、そのこと自体、とてつもなく大きな決断だったはずだ。子どもたちを守りたいという親の切実な想いに、応える道はないのだろうか。
日本国憲法には、こういう記述もある。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、
政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、
自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
難民として逃れる先として、日本を選んでいなければ助かっていたのに…などということになって欲しくない。あってはいけない。そんな現実があるとすれば、それは痛ましい理念倒錯だ。
日本は、子どもの健やかな成長を願って、空に大きな鯉を泳がせる世界で唯一の国である。海外に誇れる美しい日本の文化のひとつであることは誰も否定しないだろう。すべての子どもたちが、安心して明日を迎えられる。そんな場所であってほしい。こいのぼりが泳ぐ空の下で、すべての子どもたちが健やかに育てることを切に願う。