ADRAの活動をいつも応援してくださる皆さま、ありがとうございます。現在、ウクライナ人道支援のためにスロバキアに駐在している細見が、戦争下のウクライナで働く同僚にインタビューをし、感じた想いをレポートします。ぜひお読みください。
―――もし自然災害や紛争が起きた時、あなたは故郷に残りますか。
「ロシアによる侵攻が起きて、私は当時6歳の娘と夫と一緒に、ドニプロの家からリヴィウというウクライナ西部の場所に移動したの。2022年2月24日、初めて国内避難民になった。」
そう語ったのは、ADRAウクライナのスタッフであり、日本の支援事業をウクライナ側で統括しているアナスタシアである。
プロジェクトマネージャーの私は、二週間に一度、彼女とオンライン会議をし、何度も顔を合わせてきた。普段真剣な眼差しで、会議に参加している彼女。「オフィスで立ち話をしているような、リラックスした形でインタビューをしたい」と伝えると、顔がほころんだ。
「私が避難民になったとき、現金給付や食料・衛生用品の支援をもらった。十分に荷物を持ってきていなかったから、とても助かったわ。
夏が近づいて、ようやく何が起きているのか頭の中で整理できた時、夫とドニプロに戻ることを考え始めたの。だけど、帰ろうと決意した次の日には大きな攻撃が繰り返された。結局、なかなか帰郷できず、その年の夏は避難先で過ごしていた。
当時在籍していた民間企業がリモートワークを許してくれたから、私が働いて、夫は家事をしていた。その時、私のように稼げる人は自分で稼いで、本当に困っている人に支援物資を届けるべきだって思ったの。それで人道支援の仕事に興味を持ち始めた。ADRAに入ってからは、どうやって事業が回っていくのか、人道支援のことを一から勉強したわ。」
彼女の仕事への熱量は、私も日々心打たれている。どうやったら受益者を一人でも多く増やせるか、支援した時に軋轢が生まれないか、きめ細やかに働いている。それは、アナスタシア自身が避難民となった経験から生まれているのだと、この時初めて知った。
彼女は、現在ドニプロの自宅に戻っている。
「2022年11月24日。戻った日に、84時間の停電が起きた。スマホはもちろん充電できない。スーパーも閉まっているし、水も出なかった。それでも、私は嬉しかったの。家に帰れたこと、家族や友人、隣人に会えただけで、喜びが満ち溢れた。ドニプロの街は、他の人からしたら大した街ではないかもしれない。けれど、ドニプロ川があって、道があって、公園があって…。私にとってはすごくきれいな街で、もうここから離れたくない。」
戦争が始まって、2年半が経つ。今も、決して安全と呼べる環境ではない。
ドニプロでは、現在も月におよそ30回の攻撃にさらされ、停電も1日8時間起きている。それでも、故郷から離れない。それは、より前線に近く、戦況が厳しい地域の人々にとっても同じだろう。自宅の壁を爆弾が貫通しようとも、食料が底をつこうとも、自分の故郷だから離れたくないのだ。
きっと彼らの気持ちが分かるから、アナスタシアも自分の愛しの地から支援を届け続けているに違いない。
自然災害大国の日本。私たちも、いつ避難を余儀なくされてもおかしくはない。決して遠い国の話ではなく、我々も有事の際に何を思い、どう行動するのかが問われているように感じた。
(執筆:ウクライナ人道支援担当/スロバキア駐在員 細見真菜)
今回は、ウクライナ国内で活動にあたるスタッフにインタビューをした細見のレポートをご紹介しました。ADRAは、避難を希望する方の移動支援にも取り組んでいますが、どんなに危険であっても故郷を離れたくないという気持ちにも寄り添って活動をしています。
一人ひとりの状況に配慮することができるのも、皆さまからの温かいご理解と応援のおかげです。今後もご支援をどうぞよろしくお願いいたします。