
さかのぼること30年前、ある日本人がノーベル平和賞の候補に挙げられました。1995年、ノーベル平和賞を選考するノルウェー・ノーベル委員会は、第二次世界大戦の終結から50年の節目に、後世に最も影響を与えた、その大戦に関連する出来事や取組に平和賞を贈ることにしました。
ホロコースト、スターリングラード、ノルマンディー上陸作戦、ブリッツ(ロンドン大空襲)、南京大虐殺、沖縄戦、慰安婦…さまざまな候補がありますが、選ばれたのはホロコーストでも南京大虐殺でもなく、原爆でした。
核という脅威。人類が自らを絶滅させる武器を手にした瞬間です。第二次大戦後の世界の価値観、各国のパワーバランスを根本から一変させた。それが「核爆弾」です。そこで1995年のノーベル賞選考委員会は戦後50年間、核廃絶のために精力的に貢献した活動家を選ぶことにしました。
そこで候補に挙がったのが、日本の画家夫婦の丸木位里・俊です。しかし、ノーベル平和賞の授与決定に前後して、夫の丸木位里さんが危篤となり、亡くなります。ノーベル賞は死者に贈ることが出来ません。その死が選考へ影響したのか分かりませんが、選ばれたのは「1957年パグウォッシュ会議」。1995年度のノーベル平和賞は「パグウォッシュ会議」に贈られました。
日本のノーベル平和賞と言えば『非核三原則』を唱えた1974年の佐藤栄作元首相、そして2024年の日本被団協は記憶に新しく、歴史の教科書に必ず載ります。しかし「幻のノーベル賞」となった丸木夫妻について、どれほどの日本人がご存じでしょうか。
1957年 パグウォッシュ会議
1945年8月、ナチス・ドイツから逃れるためにアメリカへ亡命していたアルベルト・アインシュタインは広島・長崎に原子爆弾が落とされたと聞いて絶望します。「こんなことになるなら、私は靴屋になればよかった」(If I had known they were going to do this, I would have become a shoemaker.) 20世紀最高の科学者と呼ばれるアインシュタインが、自ら科学者になったことを後悔した瞬間でした。
E = mc² : わずかな質量でも、それに光速の二乗を掛けると膨大なエネルギーを放出できる…。自身が発見した一つの方程式が、人類滅亡爆弾の根拠になります。
1939年、アインシュタインはナチス・ドイツが原爆を作るかもしれないという危機感から、時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに原子爆弾製造の推薦書を書きました。この手紙がきっかけとなり、アメリカは原爆開発「マンハッタン計画」に乗り出します。しかし、実際にはナチスには使われず、連戦連敗で敗戦濃厚だった日本に落とされました。
「一都市をまるごと消し去る爆弾」
そんなものはこれまでの世界にはありませんでした。これ以降、人類は自ら絶滅の脅威と向き合うことになります。大戦中は「連合国」としてまとまっていた資本主義と社会主義の国々は、戦後、案の定対立します。
1949年、ソ連が核実験に成功、中国共産党が国民党を台湾に追い出し、資本主義陣営に不安が走ります。
1950年、資本主義のリーダー国アメリカが社会主義を容認できなくなり、反共運動「赤狩り」を開始。
1951年、「連合国」であったアメリカとソ連はついに対立が表面化し、朝鮮戦争が勃発。さらに1952年にはイギリスが核実験に成功し3番目の核保有国となります。
その後も米ソの対立は深まり、両陣営で原水爆実験競争が過熱し、核保有国は増え続けます。世界各地で代理戦争が発生し、いつ核戦争が勃発してもおかしくない世界情勢の中、アインシュタインは科学の発展が戦争や核兵器に寄与することへの深い後悔と危機感を得て、哲学者バートランド・ラッセルと共に1955年「ラッセル・アインシュタイン宣言」を発表します。被爆国日本から湯川秀樹博士を含む世界各国11名の科学者が連名し、世界屈指の科学者自身が核廃絶を訴えた瞬間でした。

(歴史的事実に基づく表現を目的としてAIにてイラスト作成©️ADRA Japan)
この宣言を出す直前に、アインシュタインは息絶えます。しかし、人類の核開発競争は止まりません。2年後、ラッセル=アインシュタイン宣言の理念を具現化するため、1957年カナダのパグウォッシュ村に22人の科学者が集まり、原子力の利用、科学者の社会的責任に関する議論が始まります。日本からはノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士、朝永振一郎博士などが参加しました。
「科学者による核開発の責任を認めます」その上で「科学技術をこれ以上戦争利用するな」
このような結論を出し、現在まで毎年会議が開かれ、科学者の意見を発信し続けています。
それが「1957年パグウォッシュ会議」。1995年のノーベル平和賞でした。
日本は教育システム上、高校の早い段階で文系・理系に分けられます。文系の生徒はその多くが高校一年を最後に、数学や物理・化学の勉強をしません。逆に理系の生徒はその後ほとんど地理歴史や国語を勉強しません。そしてそのまま就職し、自分の専門とする学問以外はほとんど知らない大人ばかりです。自ら「エリート」意識を持つ人々ですら、ほとんど興味すらありません。(かく言う私も文系科目を勉強するあまり、苦手な数学がおろそかになり国立大学に行けませんでした!!!おかげで3倍の学費を払い私立大学に行く羽目になったので自戒を込めて申し上げます…。)
私はかつての職場でシステムエンジニアの同期と以下のような議論を交わしたことがあります。
「科学技術が悪い使い方をされたとして、それは使う側の責任であって、開発者側の責任ではない」
恐らく当時、政府によるインターネット規制が年々強まり、その発展を妨げるような介入に対し苦々しく思っていたのでしょう。私は驚きましたが、たとえば「科学技術は人々の生活を便利にする一方で環境破壊や格差の拡大、軍事利用など負の側面も生み出す」等と言うのは、ある人にとっては常識かもしれませんが、違う畑の人は今でも全く認めないということです。逆に彼らからすれば文系卒のITリテラシーの低さに驚いていました。
2022年ウクライナで核保有国による侵攻が始まりました。ガザで核保有国による空爆が行われました。さらに2025年現在、イスラエルとイラン、そしてインドとパキスタンの間で核保有国同士の紛争が懸念されています。さらに台湾海峡でも対立がくすぶっています。
今の世界にアインシュタインはいません、ラッセルも湯川博士も朝永博士もいません。
いまこのバトンを受け取ったのは、私であり貴方なのです。
2025年11月、第63回パグウォッシュ会議が広島にて開催されます(https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/peace80/hope-pugwash.html )。被爆者らとの対話などを通し、「広島宣言」を出す予定です。
日本から戦争経験者は多く亡くなりつつあります。しかし、まだ我々の記憶には彼らの生の声が生きた姿があるはずです。後世に我々の父や母、おじいちゃんやおばあちゃんの想いを受け継ぐのが、私たちの世代に課せられたバトンなのではないでしょうか。
長崎原爆資料館に訪れたことがあるでしょうか。私が訪れたのは10年近く前ですが、原爆の凄惨な被害とそれにまつわる悲劇を展示する資料館、その出口にこの絵(https://marukigallery.jp/hiroshimapanels/#gallery-14)があります。さんざん長崎が悲惨な目に遭い、受けた苦痛を聞いた後、ひっそりとこの絵を目にします。この絵には以下のようなコメントが添えられていました。
『原爆がおちゃけたあと、一番あとまで死骸が残ったのは朝鮮人だったとよ。
日本人はたくさん生き残ったが朝鮮人はちっとしか生きの残らんぢゃったけん。
どがんもこがんもできん。
からすは空から飛んでくるけん、うんときたばい。
朝鮮人たちの死骸の頭の目ん玉ば、からすがきて食うとよ。
からすがめん玉食らいよる』
(石牟礼道子さんの文章より)
私は胸を打たれたかのような衝撃を受けました。
「あれ?たったいま散々ナガサキの原爆の被害を見て、胸が張り裂けるような思いになったけど、もっと酷い扱いを受けた人たちがいるんじゃない? まるで日本人は被害者みたいな顔してるけど、ことここに至っては加害者なんじゃない?」
信じていた足元が崩れ去り、奈落に落ちていくような感覚でした。世界が認める、人類史上最悪レベルの極限状態。それでも続く「差別」という闇。日本人の死体は運ぶが、朝鮮人の死体はそのままにしておく、ともに原爆の被害を受けたのに。生きていても差別して、被爆しても差別して、ましてや死んでからも差別した。「差別」という根の深さ。植民地主義の業の深さ。絵に描かれたチマチョゴリは恐らく事実ではなく、象徴的な表現だと思います。それでも数千体の放置されたご遺体が目に浮かびました。この絵のコメントは以下のように続きます。
『長崎の三菱造船に強制連行された
韓国・朝鮮人約五千人が集団被爆しました。
ひろしまにも同じような話があります。
今、韓国だけでも一万五千人近くの被爆者が
原爆手帖さえなく暮らしているのです。』
出展:丸木美術館ホームページhttps://marukigallery.jp/hiroshimapanels/
「第二部 火」の絵 https://marukigallery.jp/hiroshimapanels/#gallery-2
丸木夫妻の代表作『原爆の図』は1950年から32年間かけて作られ、全15部からなる大作です。黒焦げになり逃げ惑う人、原子の炎に焼かれる者。まさに地獄絵図ですが、嘘みたいな本当のことです。しかし、その視点はあくまでも優しく、死んだ我が子を抱きかかえる母親、差別を受けた朝鮮・韓国の方、同じく被爆した米兵捕虜にまで向けられています。
夫妻の解説を読むと『当時東京に住んでいた位里は(中略)原爆投下から3日後に広島に行き(中略)俊は後を追うように1週間後で広島に入り、ふたりで救援活動を手伝いました』とあります。その後30年以上、その光景を後世の人々が忘れないように尽力下さったかと思うと、頭が下がりました。
埼玉県東松山市にある丸木美術館では、原爆のみならず、アウシュビッツ、南京大虐殺、沖縄戦、水俣病を題材とした絵を見れます。夫妻は生涯にわたって反戦・反核・反権力のメッセージを生み出し続けていました。
凄惨な絵が目立つ『原爆の図』ですが、私たちに希望を与える絵もあります。『第十部 署名』です。
「第十部 署名」の絵 https://marukigallery.jp/hiroshimapanels/#gallery-10
以下の解説が添えられています。
『原爆やめよ、
水爆やめよ、
戦争やめよ。
東京杉並のお母さんたちの呼び声は
日本中にひろがりました。
こどもも、お母さんもお父さんも年よりも、
ありとあらゆる職場の人が署名しました。』
1954年、アメリカが太平洋のビキニ環礁で秘密裏に水爆実験を行います。
3月1日、いきなり水爆が炸裂し、何も知らされず近くで漁業していた焼津の第五福竜丸が被爆しました。怒ったのは東京都杉並区の婦人たちです。高円寺、阿佐ヶ谷の商店街の魚屋さん組合がブチギレました。
5月9日には水爆禁止の署名運動が組織化され「杉並アピール」を発表。
7月20日、2ヶ月で署名27万筆を集め、8月8日に活動を全国に展開します。
翌1955年1月19日に原子戦争準備反対の「ウィーン・アピール」が出され活動は世界展開します。
同年7月一線級の科学者によりラッセル=アインシュタイン宣言が発表されます。
杉並区がある高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪といえば、いまも多くの若手のお笑い芸人やミュージシャンが住む「文化の町」です。私もその小さな劇場に訪れたことがあります。新宿まで電車で10分の”超”都会ですが、地元の声が根強く、まだ超高層タワーマンションはありません。私は中央線沿線に住んでいた頃、せっかく中央線と総武線で複々線なのに「地元の声が根強く」平日の快速電車は高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪に停まるので「高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪に快速停めないでよォォ!!!」と思っていました。今も感じる杉並の強さです。
そんな、杉並の方々がおそらく歴史上初の世界的な反核運動を始めました。一線級の科学者ではありません、近くの商店街にいるおばちゃん達です。1995年のノーベル賞は「1957年パグウォッシュ会議」に贈られました。丸木夫妻も惜しかったですが、私は杉並区の皆さんを称えたいですね。
少なくとも私たちは勇気あるご婦人たちを覚えておいてもいいのではないでしょうか。この事実を今に伝えてくれる。丸木夫妻作『原爆の図 第十部 署名』はそんな絵です。
戦後80年、世界はいまだ混迷の中にいます。核保有国による武力衝突は、核戦争に至る恐れがあります。
でもそれを止めるのは? 世界的な権力者か? 一線級の科学者か?
そんな時は阿佐ヶ谷や高円寺、荻窪の商店街に来てください。丸木夫妻の『第十部 署名』を思い出して下さい。
世界を動かすのは、ひょっとしたらあなたかもしれません。
参考資料:杉並区ホームページ 原水爆禁止の声を、杉並から世界へ
https://www.city.suginami.tokyo.jp/s007/10580.html
すぎなみ学倶楽部 竹内ひで子さんが語る原水爆禁止署名運動
(文責:山田 貴禎)


