【戦後80年】この街に遺る爪痕を辿って

原宿は今日も多くの人で賑わう。

朝から強い陽ざしが竹下通りを照らす。まるでコーヒーに入れたばかりのミルクのように、生き生きとした入道雲の間を水縹の空が顔を覗かせる。都会の喧騒に蝉が参加するにはまだ早い。ただじっと土中で出番を待ち焦がれる―――そんな事を人間は露知らず、自撮り棒を天に掲げ入念にポージングを決める海外からの観光客やズボンの丈を持て余し、シワ一つ無い制服に身を包み、辺りをキョロキョロしながら集団で行動する修学旅行生、個性的なファッションに身を包み竹下通りを闊歩する蛍光色の髪色をしたアパレル店員など、様々な人種がこの町を行き交う。今やKAWAIIの発信地として、原宿は世界に名を轟かせている。

連日多くの観光客が行き交う竹下通り

原宿は、江戸時代に鎌倉街道の宿駅があった事を由来に、現在の地名となったとされている。

これまでの田園や武家屋敷が立ち並ぶ様から一変して、明治時代には原宿駅が開通し、華族や高級官僚の住宅地へと変貌した。やがて、明治神宮が建立され、都内でも屈指の美しさを誇るケヤキ並木が整備された。

この頃から、所謂古き良き日本の建築様式から、近代的な鉄筋コンクリート造りの集合住宅が幅を利かせ始める。西洋化の潮流に乗ったばかりではなく、家屋の倒壊や焼失の被害が大きかった関東大震災の影響も多分に含まれている。

若者が集う街として栄える様になったのは、1960年代だという。

1964年に開催した東京オリンピックのために、現在の代々木公園に建てられたワシントンハイツが日本に返還され、選手村として活用された。

海外から多くの選手が来日されると共に、外国文化と接する機会を得た日本人も多かったであろう。カラーテレビが爆発したように売れ、オリンピックは国民を魅了した。

原宿のシンボルとも言えるショッピングセンター“ラフォーレ原宿”が建つ明治通りには、日本初のドライブインレストランがかつて存在した。その名も、“ルート5” 。オリンピック後には、夜な夜なリッチな若者がここに集まり車を乗り回した。俗にに言う“原宿族”である。

ADRA Japanの事務所があるセブンスデー・アドベンチスト東京中央教会も、元々はラフォーレ原宿が建つ土地の前身であり、ルート5の真横に存在した。

1970年代に入ると、女性向けファッション誌がこぞって原宿を取り上げ、雑誌の影響を受けた若い女性たちを“アンノン族”と呼んだ。ファッションの中心地としての地位を確立し、流行の発信地となる。

その後も、路上で踊る“竹の子族”を皮切りに、黒い革ジャン姿で踊る“ローラー族”や数多くのファッションブランドを生み出した“裏原”など、時代時代で記憶に残る一大ムーブメントを巻き起こした。

多くの人々を魅了する原宿であるが、誘惑の多いショーケースから泰然と視線を逸らすと、今でも戦争の痕跡を街が記憶している。胡乱に放置された空き缶の様に、観光客は一瞥することはない。いや、事務所への通勤のため、足繫く原宿まで通う私も知らなかった。クリエイティブやファッショナブルなイメージが強いこの地域ではあるが、華やかな街の裏側には確かに暗い影を乗り越えてここまで発展してきた歴史があるのだ。戦後80年という節目に振り返る。

かつてここにはセブンスデー・アドベンチスト東京中央教会が建っていた

太平洋戦争末期に差し掛かる1945年。

東京一帯は、幾度となく続く焼夷弾等による無差別爆撃で大きな被害を被った。

東京大空襲戦災資料センターによると、1942年にアメリカ軍による東京への初空襲が行われ、戦争が終結するまで多くの地域が焦土と化し、爆撃による罹災者が約300万人、約10万5400人が亡くなった [公益財団法人政治研究所, 2025]とされている。

ひっきりなしに続く空襲の中でも、1945年5月25日夜間から続いた山の手大空襲で、東京の市街地はほぼ壊滅状態であったといっても過言ではない有様であった。

例にもれず、原宿や表参道でも大きな被害をもたらした。

表参道のシンボルである美しいケヤキ並木も、この時に9割以上が焼失。現在植えられているケヤキは戦後に植樹されたものがほとんどだという。

ガラス張りのショーウィンドウが視界の両脇を占める。リクルートスーツとは一味違う墨色のジャケットを身に纏い、ボーイは無表情にただ一点を見つめる。曇り眼とは対比して、純白の手袋が昼光に照らされこの店一番のハイライトとなり、多くの観光客が蠱惑された。高級ブティック特有の芳しい匂いに倦厭してきた頃、銀行を境にケヤキの世界が終わる。そこは、オフィス街の様相を呈していた。一際大きい2基の灯籠が目に付く。山の手空襲の生き残りだ。かつて、銀行前には多くの遺体が積まれ、建物の2階程までの高さだった、 [古本湖美, 2025]という。

灯籠に刻まれたひび割れは空襲によるもので、白橡の石材に残る液体を垂らした様なシミは、焼夷弾により燃えた人々の血と脂が染み込んだのだという。

銀行前の石碑が死者を尊ぶ。「和をのぞむ」その碑銘と共に沈黙を語る。今日も表参道は多くの人で賑わう。

2基の灯籠はただ静かにこの街を見守り続ける

華やかな街は1日では成されない。多くの歴史が積み重なり、今がある。

都会の喧騒から少し立ち止まると、かつてここで生きていた人々が体験したモノトーンの世界が見えてくる。

今回取り上げたのは、街が記憶している一抹の歴史に過ぎない。

竹下通りのすぐ隣には、東郷平八郎を祀る東郷神社が建立されており、陸軍刑務所のあった渋谷の繁華街には数々の標石が寂寞と佇む。戦争の爪痕は私たちが意識すれば、すぐそこにあるのだ。

間もなく日本は戦後80年を迎える。

あれから世界は平和になったであろうか。今日もどこかで繰り広げられる争いに、それが現実として甘受せざるを得ない状況は何ともやきもきさせられる。

人道支援の世界に関わる様になってから、ニュースで報道されない数多のミクロな惨事を目にした。“無知の知”を現場で実感する。私たちは知らなければならない。先人が残した想いが、一瀉千里の如く情報が行き交うこの世界で生き続けられるように。

彼らは憐憫を乞うてはいないはずだ。平和のために過去を学び、未来のために過去を伝える。少し先の平安を祈って。

(文責:三牧晋之介)

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