【戦後80年】スジョンと私

胸糞が悪い。

5月末の金曜の昼過ぎ、書籍の頁をめくりながら私はつくづく、そう感じていた。反面、脳裏にスジョンと共有した数々の思い出が蘇る。

スジョンというのは、私の学生時代の友人。大学2年生の時、在籍していた国文学研究室に留学生として韓国からやってきた。他の留学生が日本生活を謳歌するのを尻目に、彼女は自ら志願して私たち日本人学生と肩を並べ、崩し字と呼ばれる古典文章の読解を行い、プレゼンまで行った努力家だ。以来スジョンとは10年以上の付き合いとなる。

彼女との邂逅をきっかけに私が人生で初めて韓国に足を運んだのが2013年。その後彼女の結婚式にも参列させてもらい、まだ赤子の時に顔を見た彼女の娘は、今年小学校に入学した。  この日私の中に「嫌悪」をもたらしたのは、「無知」である自分自身だった。手にしていた書籍は「日韓の歴史問題をどう読み解くか」(内田愛子、2020年)。1919年に朝鮮半島で起きた日本の植民地化に対する独立運動「三・一独立運動」がどのような背景から起きたのか、植民地支配の実態はどのようなものだったのか、がまとめられていた。

天皇の外交的権威を高めようと動き出した明治維新後の政府。1910年の韓国併合以後始まった武断政治と実質的にその強権的支配は変わらなかった1920年代の文化政治。この間、日本政府は朝鮮の人々に日本語の習得を強要し、農業・漁業・鉱業における利権を独占、憲兵警察による非人道的な刑罰などを実施した。「韓国併合」は韓国において「(キョン)(スル)(クク)()」という名前で表記する教科書もあり、その字からも人々の感情が窺える。

1919年には、日本への輸出を目的とした日本品種米の強制的生産が全体の63.5%にも及んだ。一方で現地農民の米消費量は減少していく。これらの支配に至る思想・決断の背後にいたのは、私たちが明治維新・建国の立役者として社会の授業で学んできた、伊藤博文や原敬、吉田松陰といった人々だ。日本という国の発展の陰に隠れた多くの人々の屈辱と犠牲、それをもたらした我が国の歴史に私はどれだけ向き合ってきたのか…羞恥心がむくむくと沸き起こった。

スジョンの実家は韓国中部、(キョン)(サン)北道(ブクド)にある。日本の植民地支配のなか、朝鮮半島では義兵とよばれる独立運動組織によって解放活動が盛んに行われた。当時朝鮮北部におけるこの義兵の一つである「光復団」の拠点になったのが、(キョン)(サン)北道(ブクド)だったという。1930~1940年半ばにかけて、スジョンの曾祖父は光復団で精力的に動いた。若くして亡くなった曾祖父にスジョンは生きて会うことはできなかったが、曾祖父の活動は政府から後日勲章も受けたのだと教えてくれた。

2013年、私が大学時代の友人2人と共にスジョンに会いに初めて韓国を訪れた折、我々は彼女の実家にも伺った。一年のうちで最も寒い2月の訪問で、気温は氷点下にもなる、凍てつく寒さの中、韓国の家庭では一般的なオンドルと言われる床暖房が効いた温かさに救われたことを覚えている。その時、私たちはスジョンの祖父母にも挨拶をした。幼くなくして実母を亡くしたスジョンを、父親とともに厳しくも温かく育てたのはおじいちゃん、おばあちゃんだった。10年以上も前の話で会話の内容ははっきりと記憶していないが、我々がおじいちゃんと日本語で言葉を交わしたことは覚えている。戦況が厳しくなった1940年代、彼女の祖父母は小学生。日本語が強要される中、学校では戦場に備えて武術が教えられた。そんな環境を生き抜いた祖父母が、孫の友人である日本人を目の前にしてどのような心境だったのか…。

 「歴史とは、過去と現在のあいだの対話である」

Edward Haller Carrという歴史家の言葉だ。歴史はそれを語る者の立場や視点によって大きく変わるとはよく言ったものだが、自身のアイデンティティーを超え、過去とまっすぐ向き合うことが私たちにはできないのだろうか。今回、改めて、日本の植民地支配や徴用工問題等の歴史、今に至る日本政府の対応について学び直した。世界の潮流が変化する中、国連の人権委員会など各所から、日本は「慰安婦問題」などの被害者に向き合うよう度重なる勧告を受けてきている。戦争を経験した世代が人口の約2割を切る戦後80年を生きる私たち世代には何が求められ、何ができるのか。法的拘束力などの議論を超えて、今課せられているのは、真摯に向き合おうとする姿勢ではないのか。

この原稿に取り組むために、私は5月中旬、スジョンにインタビューを依頼した。「戦後80周年」というテーマで原稿を書く企画に合わせ、韓国と日本の歴史について書きたい、そのために話を聞きたい、と。二つ返事で了承をくれた彼女も、インタビュー開始してしばらくはその緊張が声を通じて伝わってきた。日常生活では使うことのない日本語でのインタビューで、戦争の話を日本人の友人である私にするというのは簡単なことではない。言葉を選びながら1つ1つの質問に答えてくれる彼女を前に、感謝の気持ちが沸き起こる。インタビュー後半、留学時の記憶に話題を移すと少し空気が軽くなった。学生時代何度も聞いたはずの彼女が日本に留学した理由。

「日本はダメ!!じゃなくて、どんな国かな?日本はすごく発展しているけど韓国とは何が違うのか?と気になって」

そう語る彼女と、当時日本に留学したいと言い出したスジョンに反対するどころか、「人生一度きりだから」と背中を押した彼女の家族に私は尊敬の念を抱いた。留学してみて何か驚いたことはあったかと尋ねる私に彼女は「本当にありがたいことばかりだった」と答えた後、思い出したようにこう続けた。

「むしろ歴史とか、私たちが(の)戦争とか日帝の強制(動員)の話とか、本当に教科書に載っていないんだ…と思った。」

2013年、友人と共に初めてスジョンに会いに韓国を訪ねた際の写真

韓国の高校では2002年から2009年まで「韓国史」という古代史の他に「韓国近代史」という科目が存在した。スジョンは高校時代、この韓国近代史の授業で先生から「併合条約の不当さを表す『庚戌国恥』は記憶すべき、忘れてはいけない歴史」と習ったそうだ。日本において、2019年度検定小学校の社会科の教科書では、「韓国併合」と「日本語の教育(強制)」についての記載は約10行程度に留まる。以下は、韓国併合にもつながる日露戦争に関する東京書籍の教科書の記述である。

「中国やロシアに対する日本の勝利は、欧米諸国に日本の力を認めさせ、欧米の支配に苦しむアジアの国々を勇気づけました。一方で、朝鮮や中国の人々を下に見る態度が日本人の間に広がっていくきっかけにもなりました。」

「アジアの国々を勇気づけた」と同様の記述は他2社の教科書にも存在する。多くの犠牲が出た戦争と当時の日本が持っていた植民地支配の思想が、このような表現で未来を担う子供たちに教えられているという現実を我々はどのように捉えたらいいのか。

初めての韓国訪問時、スジョンは私たち同級生3人をソウルの西大門刑務所歴史館に連れて行った。そこには日本による朝鮮植民地時代に起きていたことが、蝋人形で再現されていた。目の前に急に突き付けられたそんな史実に、心がズドンと落ち込んだことを覚えている。他方、スジョンとは彼女が日本に居た時、共に広島を旅行した。原爆資料館の訪問は、彼女のたっての希望だった。スジョンと思い出話をする際、彼女はよくこの西大門刑務所歴史館訪問時の話をする。

「韓国の友達に、みんなと刑務所歴史館に行ったと話したら、すごく驚いてね。でもすごく喜んでもいた」

西大門刑務所歴史館 中央舎(公式ホームページより)

今回私が本企画でスジョンの話を取り上げようと思ったのも、ちょうど今年の4月に彼女に会った折、この思い出話をしたからだった。学生時代、戦争や歴史、平和について何も分かっていなかった私に、スジョンは「大切な友達だからこそ知ってほしい」そんな想いで私たちをあの場所へ連れて行ってくれたのではないか…30歳を過ぎてようやく彼女のメッセージをきちんと受け取ることができた気がした。

現在、ありがたいことにADRAの仕事で私は多くの国とそこに生きる人々に関わらせてもらっている。人道支援事業では、現在戦争が起きている国と関わり、開発支援事業では、かつてどこかの国の植民地支配下にあった国の人々と仕事をしている。各国の歴史を学び、事実と向き合うこと。戦争に対する私たちの立場、その支援の中でできる役割。自身の思想を振りかざすのではなく、相手に寄り添いながら取り組むこと。これらを考える時、日本人という1つのアイデンティティーを持つ私が、自国の歴史を学び、かつ、向き合うことは欠くことのできないプロセスだ。

慶尚北道にある大韓光復団の記念碑。
光復節等の式典でお祖父さんがよくスジョンを連れてきた場所。

2024年12月、スジョンの祖父は御年92歳でこの世を去った。戦後光復団員遺族として精力的に活動し、自身も兵役奉仕を行ったおじいちゃんは、今国家功労者のみが入ることができる特別な墓地で安らかに眠られている。私自身が歴史と向き合いきれないまま、生前の彼に会ったのは、学生時代のあの日が最後になってしまった。今度韓国に行く時には、おじいちゃんの墓前できちんとご挨拶ができるだろうか。学ぶべきこと、向き合うべきことはまだまだ残されている。

文責:高橋 睦美

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