ドイツと日本、苦境への対応差について

1918年11月、ドイツ、キール軍港。

第一次世界大戦の総力戦でドイツ帝国は大きく疲弊、敗戦が続き、敵国イギリスに対し圧倒的形勢不利、敗戦濃厚な状況となった。そんな中、ベルリンの海軍本部よりキールの水兵に絶望的な命令が下された。イギリス帝国への帰国も定かではないイチかバチかの突撃作戦である。

しかし、作戦の効果に疑問を持った一部のキール水兵は、この出撃命令を拒否。不服従は反抗とみなされ、逮捕される。事ここに至り、水兵の中から仲間の釈放を求めるデモが発生、官憲が発砲したことで水兵は動揺を抑えられなくなり、ついに大暴動が発生した。

このキール蜂起をきっかけにドイツ各地で反乱が発生、帝国は鎮められず、戦争は終結へ向かう。終戦後、ドイツ皇帝は帝位をはく奪された。その後現在に至るまで、ドイツに皇帝はおらず、共和国となっている。

1944年10月、フィリピン、レイテ島。

第二次世界大戦でアメリカ海軍に対し大きく後塵を拝した大日本帝国海軍は、勝利の見込みがないことを悟りながらも、アメリカに一矢報いるため「必死必中の体当たり兵器」として「神風特別攻撃隊」を組織した。

搭載する燃料は行きがけのみ、その代わり機体に爆弾を携えてアメリカ艦隊に突撃せよという命令であった。特攻隊として指名された者の多くは、経験が浅く、作戦行動を任せるには時間を要する若い兵士たち。経験も防御力も低く、命中率わずか10%と考えられ、その後、戦争犠牲者は急激に増加する。

1945年8月、戦局の逆転はならず、日本は降伏。その後、統帥権を握る最高責任者であった昭和天皇は責任をとり、帝位をはく奪されることはなかった。引き続き現在に至るまで、日本には天皇制が敷かれ、日本国民の象徴と憲法に制定されている。

このドイツと日本の差はどこにあるのか。無謀な作戦を拒絶する勇気、抵抗する行動力、こういったものがどうして当時のドイツ人には出せ、日本人には出せなかったのか。そして今の日本人ならば出せるのか。今もロシアやウクライナで多くの若者が亡くなっている。世界各地の紛争に対し、なるべく犠牲者を出さない知性を、個人として行動する自立心を私は身に着けたい。

広島平和記念公園の石碑の正面には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれている。私の知る限り、多くの若い特攻隊員たちが、桜の散る花びらに自分自身を重ね合わせ、死んでいった。国名が変わり、時代は流れど、私にはたった二世代前の日本の出来事だ。彼らの遺志を汲み取るため、今年も見事に咲く桜をながめ、私は思いを馳せる。

(以下は知覧特攻平和会館 某年5月3日来訪 特攻隊が実際どのようなものだったのか、展示されている)

(文責:山田 貴禎)

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