
数か月前の猛暑はどこへやら、朝晩は随分と冷え込むようになってきた。黄金色に輝く稲穂は頭を垂れ、縦横無尽に舞い踊る赤とんぼ。通り過ぎる人々を田んぼへ迎え入れるが如く、深々と式礼を執り行う。刈安色のジャケットを煌めかせ、高級老舗旅館で働く仲居の様に連亘と並ぶ彼ら。どこか品の良さを醸し出すその姿に、思わず背筋を伸ばす。今日も熱烈な歓迎を受け、穴水から帰還した。
昨年の1月に入居したアパートの一室。気が付けば1年8か月住んでいた。鉄筋コンクリート造りではあるが、隣の部屋との区切りは石膏ボード。人々が眠りにつき、静まり返った頃にどことなく聞こえる笑い声。ノリノリで熱唱しながら飛び跳ねているのか、上の階から響き渡る足音。時折目を覚ましながら、自分の感情が狼戻する。ワンルームの片隅で、今日も夜を過ごす。

今日まで多くのボランティアを富山事務所で受け入れてきた。サロン系活動の拠点として、個人からの公募で20チーム、学校や企業等の団体も合わせたら40チームはくだらないであろう。多くの人々が力を合わせ、約4300人の方に足湯やカフェで過ごす時間を届けることができた。
「あー、まだ来てくれとったんか。あん時は寒かったねー。気の毒にねー。」
「ここにおると、みんなおるし。話ができる。家におっても一人だもんで、誰とも話さない日もある。」
「でっかいバスで、よー来とったね。水が出なくて、ここ(給水所)と行ったり来たりで大変や。人も減ったし、町もまだまだやけどね。何とかね。まあ無事でよかったわいね。」
最近では、天気や近所のスーパー、畑の話等、日常の生活に関する雑談で盛り上がる事が多いが、ふと何かの拍子に感情が横溢し、地震に対する潦が生まれる。被害状況により、過去の話になりつつある方、現在もまだ震災から時が進まない方、能登に住む人の数だけ様々な想いが息をする。 ADRAの活動は、彼らにとって安らげる場所を作る事であった。果たして本当に成される事ができたのかと不安になる瞬間がある。毎月開催しているカフェは今回が最後と聞いて、多くの方が顔を見せに来てくれた。元通りの生活を送れているからなのか、気を遣われているだけなのか。感謝の言葉を頂戴するが、笑顔の底にある感情は私では推し量る事ができない。それでも、前者であると願いたい。支援活動は、自問自答の連続である。

事業地の状態や能登で動いている他事業との兼ね合いから、富山事務所は閉鎖し、穴水事務所に業務を集約する事になった。部屋の退去日を控え、備品の片付けに追われる。よくもまあ、これだけ荷物を持ってきたなと感心する。昨年の1月には、何が必要になるかわからないからと、使う可能性のある物は片っ端からバスに詰め込んだ。能登での役目を終えた彼らは、所々傷を増やし、紫外線を浴びて色褪せした姿ながらも、どこか誇らしげに見えた。帰りはミニバンに押し込まれ、積載量ギリギリを保ち倉庫へと向かう。もう陽の目を見ない事が一番望ましいのだが、果たして…。
久しぶりの我が家は、いつもカビ臭かった。換気から始まる1日のスタートは、あまり良い気分ではない。ブレーカーのレバーを上げ、明かりが灯る。家電の起動音が聞こえたら、私の起臥が再開する合図だ。冷蔵庫は野菜で一杯になり、次の出張に備えて食べきる事を考慮する必要はなくなった。フカフカのマットレスは、一瞬で眠気を誘う。誰かに安眠を妨害されることもない。
能登の人々も、自宅でかけがえのない当たり前の毎日を送っていた。突然奪われた生活に呻吟としたであろう。これからは心健やかに過ごせる事を願う。
富山事務所が閉鎖したとはいえ、まだまだADRAは能登での活動を続けていく。依然として、穴水事務所は健在である。数か月後、私たちは3度目の雪を迎える。白く彩られていくこの地で、私たちは何ができたのか。そして、この地を去るまでに何ができるのか。
夜半に虫時雨が響き渡る。こんな夜は、ひたすら審念熟慮してしまう。人の気配が街から消えて、ただ自分と向き合う。満月と呼ぶには些か欠けている佳宵に、薄っすらと雲がかかっている。まだまだ胸の月を拝むには不熟な様である。
(文責:三牧晋之介)

