
言葉とは不思議だ。私たち人間は、相手に自分の想いを伝えるために言葉を尽くす。そして相手が考えていることを理解するために、人の語りに耳を傾ける。言葉があるからこそ、表情や行動だけでは読み取ることのできない、誰かの心の機微を捉えることができる。他者の心ない一言に傷つき、また別の誰かの何気ない発言に救われもする。私とあなたの関係を見た時に、そこには言葉が及ぼす影響が多かれ少なかれ存在する。
では言葉が無ければ、目の前の誰かと心を分かち合うことはできないのか?
私たちは時として、言語が通じない犬や猫などの動物と心を通わせることがある。また、母国語の異なる外国の人々を相手に人生で忘れることができないほど豊かな時間を過ごし、共鳴し合うことさえもできる。
知識も見通しもないままに話す人が、なにかの真実を口にすることはある。けれど、本人は少しもわかっていない。
真実を内に秘めている人は、それを決して言葉にはしない。
そんな人たちの心の中には、魂が、リズムのある沈黙をたもって暮らしている。
(カリール・ジブラン 著/船井幸雄 監訳・解説「預言者」)
世界30か国語以上に訳されたカリール・ジブランの名著『預言者』の一節だ。躍起になって弁を尽くしたところで、中身が伴わなければ相手の心には届かない。どんな美辞麗句を並べたとしても、私たちの本音は隠すことができない。人が見ているのは言葉の奥に隠れる「あなた」という生身の人間だから。
この仕事をしていると「心が通う瞬間」を体験することがある。不思議なことにそうした相手は、生まれも育ちも全く異なるバングラデシュの片田舎に住むお母さんや、事業実施国のジンバブエやウクライナの同僚だったりする。経歴も私とは共通点皆無であるのに、分かり合えるのだ。
一つ一つ丁寧に質問を重ねることで相手の生活や人生が垣間見え、人となりを感じることもあれば、何気ないやり取りからその人の想いや生き方を汲み取って敬意が生まれたりする。その会話が例え軒先での30分のインタビューであっても、同僚と空き時間に近所を散歩した時の会話であっても、変わらずにあったのは「心」だったのだと実感する。


結局言葉ではなく心なのだと言いながら、今も私はこうして自分の信じるものを誰かに伝えようと、どんな表現が良いのか想いを巡らせている。筆を走らせ想いを伝えることも、心臓が口から飛び出そうになりながら心の内を目の前の誰かに伝えることも、自分は極めて未熟だ。それでも心に灯る自分の価値観を見い出させ、焚きつけてくれる友人や同僚がいるから己を見失わずにいられるのかもしれない。今日は、そんな人々の顔を思い浮かべながら、ここで筆を置くことにしたい。
文責:高橋睦美

