ヤギの子どもに人間の母乳を与えるしかないのか

西ネパールにあるバルディヤ郡。4月も終わりを迎える頃、当地の気温は40度を超え、陽の光が肌をジリジリと刺激する。ネパール暦カレンダーで毎月5日、地域の小さな建物に、子どもを抱いて母親たちが集まってくる。地域の母親グループの母子保健に関するオリエンテーションがあるのだ。

この日は子どもも含めて30名程が、水色のサリーを来た女性地域保健ボランティア(FCHV)の女性を囲んで座っていた。

「私の初子は亡くなりました。乳房が張って痛くて、初乳をヤギの子どもに与えました。」

FCHVのSaraswati氏は自己紹介でそう語った。

彼女はFCHV歴29年になるベテランのメンバーであり、人前で話すことにも自信があるように見えた。背筋をピンと伸ばし、手に持つ小冊子をパラパラとめくりながら話す。カンニングペーパーのような文章も用意されているのだが、全て内容は頭に全て入っているのだろう…彼女がそこに目を落とすことなく、母親一人ひとりに向かって大きな声で指導をしていた。

「私が妊産婦の時、母も姉も私に正しい知識をアドバイスすることはできませんでした。また、自分も母子保健に対して何も知らなかったので、とても苦労したのです。」

「今、こうしてFCHVとしてこの地域の女性たちへ母子保健の指導ができることをとても嬉しく思っています。私のような母親はこの村には沢山いると思うので、みなさんの力になりたいのです。」

私はこのセッションの後、Saraswati氏に声をかけて先程の話の詳細を聞いてみた。

彼女の話は、聞いたことを一度は疑う内容だった。

「私は15歳で結婚し、21歳で最初の子どもを授かりました。今のように病院や診療所は当時ほとんどなく、自分もお産に対する知識は何もなかったです。自宅分娩が普通で、近所の女性が手伝ってくれて…。朝、子どもを取り上げ、夕方にはその子は息を引き取りました。副鼻腔炎が原因だったと記憶しています。さらに外もとても寒かったので、長く生きることはできなかったのだと思います。」

「医者も助産師もおらず、私の子宮の中の胎盤は翌日になって看護師を呼んでようやく取り出されました。一方、出産した身体は乳房が張り、痛くてどうしようもなかったです。母乳を吸ってくれる子どもも、もういない。機械もない。どうしたら良いか誰に聞いても対処法がわかりませんでした。そこで、近くにいたヤギの赤ちゃんに初乳を与えようとしましたが、上手く行きませんでした。次に、犬の赤ちゃんにも試してみましたが、やっぱり効果はなく。3日後、やっと自然に母乳が出てきたのですが、本当に痛かったのを覚えています。」

自身のことを隠すことなく話す彼女は、さらに続ける。

「あの時、もし正しい方法を知っていれば、辛い思いはしなかったでしょう。知識はとても大切です。だから、今私はFCHVの仕事をしているのです。誰かに呼ばれたらいつだってかけつける気持ちでいます。私のようになってほしくないから…」

真っすぐ目を見て話すSaraswati氏からは、経験から生まれた強い意志を感じた。

オリエンテーションの参加者の中でも、目を輝かせながら前のめりに話を聞く女性がいたので、インタビューをしてみた。毎月参加していると彼女は言った。

「私には、娘と息子がいます。このオリエンテーションでは、毎回新しい知識を知ることができるので、参加するようにしています。近所の友人や女性がいれば、声を掛け合って一緒に来るのです。私たちにとって大切な場所です。」

母親グループのリーダーであるSaraswati氏の気持ちが、彼女にしっかりと伝わっているのを感じた。

ネパールの母子保健分野はまだまだ未熟で、整備されていない施設も多い。特に地方では、今回聞いたような話は驚くようなことではない。それでも、過去から学び、未来を少しでも良いものにしようと強い思いを持って働いている女性がいる。

私たちADRAは、現地の人々のニーズに耳を傾けながら、彼らが本来持つ大きな希望とちからをどうしたら繋いでいけるのかを考えて活動を進めています。例えADRAがこの地を離れたとしても、自走していける基盤づくりをお手伝いするのが、我々の役目であると胸に留めながら現地で活動をしています。

(文責:ネパール事業担当 渡辺 陽菜)

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