
4月9日のオンライン朝日新聞で、フリーアナウンサー、桑原征平氏(80)のインタビュー記事を読んだ。桜が好きだった彼の母親について語られていた。小学生のころ、「今夜だけは」と母が父に懇願し、兄と母3人で京都の平野神社へ夜桜を見に行った記憶を辿る話。
桑原氏の父親は戦場を経験している。1938年に中国へ出征し、多くの現地人を殺め 、自身は傷病兵となった。その後日本に戻ってからは、職を転々とし酒を飲んでは、母親に暴力をふるった。それでも桑原氏の母親は、戦争で変わり果ててしまった父を信じ、別れることは無かった。桑原氏の話は、戦争体験の話ではなく、『誰かの家族の話』として私の心の中にストンと落ちた。
桜を見る度に、桑原氏は母親の口癖を思い出すという。
「戦死した家も復員した兵隊の家も地獄。戦争は絶対にしたらあかん 」

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20130222/341157/
私は現在ADRAの仕事のひとつとして、ウクライナ事業を担当している。昨年4月から今年3月末まで同国内において、戦争の影響により心のケアが必要な方々にオンラインや電話によるメンタルヘルス社会心理サポート(MHPSS:Mental Health and Psycho Social Support)を提供してきた。
事業期間も半ばに差し掛かった昨年9月17日、現地スタッフとのZoom会議が行われた。MHPSS活動の報告の中で「GBV(Gender-Based Violence)のサポートグループを実施してほしいという女性からのリクエストが増えている」という話があった。理由を聞くと、ちょうど兵役のローテーション期間の切り替わりの時期で、戦場から家族の元に戻ってくる兵士が増えているタイミングだからと説明をしてくれた。

私は至って“普通”の家庭で生まれ育った。父はサラリーマン、母はパートタイムの仕事をしながら、私と2つ年上の兄を育ててくれた。私が中学校に入った頃からか、父は単身赴任となり、家族全員が顔を合わせるのは基本的に連休などの特別な機会だけというのが、我が家のルーティーンとなった。大学生になり親元を離れ、それまでに知ることもなかった世界・社会の一面を見る機会が増えた。
初めて外国に行ったのも大学時代。ボランティア活動なるものにも興味を持つようになり、学生時代を過ごした福岡の在日朝鮮人の方々や博多駅周辺でホームレスとして生きる人々に出会った。当たり前ではあるが、皆誰かの息子や娘で、中には母親や父親として家庭を持つ方々もいたはずだ。そこにはそれぞれの家族のストーリーがあったのだと思う。
所謂平凡な家庭で生まれ育った私が言うのもおかしな話だが、「温かい家庭」が人生の唯一無二の幸せ像ではないと思う。世の中には、両手では数えきれないくらいたくさんの「幸せ」の形がある。しかし、それがどんなカタチであれ、そこにある他人の「幸せ」を奪う権利は誰にもない。
ウクライナで、戦場から戻った家族が家庭内で暴力をふるってしまうケースがあるという話を聞き、オンライン会議の画面越しにいる現地同僚や、スロバキア駐在赴任中に出会ったウクライナ人たちの家族を思い浮かべる自分がいた。遠く離れたウクライナで、日常の幸せを奪われ、心に深い傷を負った人々のために、日本にいる私たちには何ができるのか。ADRAの支援を通じ、一家団欒を奪われてしまった人々に寄り添い、その心の傷が少しでも癒え、明日を生きる力に繋がるように。そんな想いを胸に刻んで今日も1つ1つの仕事をしている。
(文責:高橋睦美)