
彼女の名は、市川結理(ゆうり)。
インターンとしてADRAに入り、現在は正職員としてエチオピア事業を担当している。インターン開始直後から怖気づくことなく発言する姿、他者が傷つかぬよう慎重に選んだ言葉で投げる質問、聞けば納得の建設的なアイデアと、的確な情報整理。私は、2つ違いの同年代である「デキる女・市川」にしばしば唸り、いつも羨望の眼差しを向けていた。
大学卒業後、10年以上消費生活相談に携わってきた市川は、30代半ばにして国際協力業界への転職を決意した。あまり知られていないが、NGO業界では大学院卒の人材は珍しくない。市川も、業界入りにあたり大学院で学ぶことを選んだが、その前段階としてNGOでインターンすることを決めた。ADRA Japanとの面接日、Zoomが開き面接官の背景に映し出された言葉を読んだ瞬間、彼女の心はふるえた。
「Justice. Compassion. Love」
「正義・思いやり・愛」
ADRAのモットーであるこの3語は、市川が人生で大切にしている概念そのものだった。
「ここで働きたい!!」
緊張と不安の中で強く思い、面接に臨んだ。採用後の彼女の働きぶりは、既述の通りである。
ある日、ブログを書くため市川にインタビューを行っていた際、私は、彼女の意外な一面を知ることになる。消費生活相談センターに就職した経緯について訊ねた時のことだ。高校時代に1年間アメリカで生活し、英語や海外に親しみのあった市川は、大学入学当初、国際協力関係の授業をとっていた。しかし、国連就職など明確な目標があった周囲と、将来像が漠然としていた自分とのギャップに戸惑い、社会学及び統計学へと転向した。
「学生の頃は、周りにあわせなきゃ、という意識があって。あわせられなければそこは自分の居場所ではない、と感じていました」
いつもの穏やかな笑顔が、苦笑いに変わった。
統計学を活かしながら社会問題の解決ができる消費生活相談センターに就職した後は、30代半ばで転職を決意するまで、国際協力に関わることはなかった。市川=周りを尊重しながらも影響はされない自分を持った女性。そんなイメージを抱いていた私が驚くと、彼女は肩にかけたショールを正しながら続けた。
「自分の意見は、いつもあるんです。周りはどうであれ自分はこう、というのも。だけどそれを前面に出さないというか…。今は、勇気をもって出せるようになりました」
「勇気をもって出せるようになった」とは、裏を返せば、「勇気を出さなければ乗り越えられない何かがあった」ということに他ならない。つまり、私が尊敬してやまない今の彼女も、ここに至るまでに、超えてきた山々があるということだ。彼女の言葉には、溢れんばかりの優しさと強さが育まれた歴史が詰まっていた。
今は、学生時代に比べて「強くなった」という市川だが、それでも傷ついたり、人と比べて落ち込んだり、他者が羨ましくてたまらない時がある。そんな時には日記を書いて心の整理をし、次の日を迎えている。
市川とのインタビューを終え、私は反省した。どこかで市川のことを、自分とは違う、先天的な能力に恵まれた人間だと思っていたからだ。しかし、彼女が臆することなく発言できる勇気も、高い業務遂行能力も、周囲への配慮ができることも、生まれつきではない。一朝一夕で得たものでもない。極めてデリケートな一面があったからこそ、傷つき、落ち込み、考え、努力してきた。だから今があるのだ。
彼女が歩んできた道を知ることもなく、「優れた人」と祭り上げることは、彼女の成長の歴史を無かったことにしているのと同じである。彼女はスーパーマンではない、一人の人間。そんな当たり前を初めて実感した時、「見上げるばかりではなく、切磋琢磨していこう」そんな思いが湧いたのだった。
幼い頃は、歌って踊る舞台女優を夢見ていた市川。36歳でNGO業界にデビューし、今夏、大学院に進学する。その後、どこを目指しているのか質問した。
「裨益者の顔が見えるところに行きたいです。そうしないと、自分で何をやっているのかわからなくなってしまう。」人々の表情を見つめ、心からの声に耳を傾け、同じ空気を吸いながら、共に生活向上に励む。「Compassionの塊でありたい!」と宣言する彼女らしい回答である。
彼女がこれから立つのは、「世界」という名の舞台だ。歌うように明るく、踊るように軽やかに、(そして時には悔し涙も嬉し涙も交えつつ!)世界を変えていく彼女に期待している。
(文責:アフガニスタン・ミャンマー担当 守屋円花)