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Southern Sudan Assistance for Refugees

スーダン難民支援・現地報告2008 Vol.27


6回の引越しなんて、たいしたことない。の巻。

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6回の引越しなんて、たいしたことない。の巻     

2007年4月18日    千葉あずさ

僕の名前はGatluak、大きな牛小屋という意味。生まれたのは1980年の雨季の始まりの頃。ちょうど両親が雨季用の牛小屋を作り終えたところだった。僕の民族、ヌエールは雨季が始まると、牛を連れて川縁に集まるんだ。豊富な水と草が、牛を元気に大きくするからね。お父さんはその時58歳で、奥さんが3人もいる部族のリーダーだった。お母さんは38歳で、僕の上には4人のお姉さんと2人の兄さんがいた。

僕はエチオピアとスーダンの国境村にいた。生まれた村は、今はエチオピア領域と見なされているけど、僕はずっと自分がスーダン人だと思ってたし、これからもそう。

村には、マンゴー、バナナの木が生い茂って、もう3,4月は果物がいっぱい。兄弟と毎日果物を食べてたよ。

3歳の頃から、空爆が始まった。初めて兵士を見たのは、僕が6歳のときだった。SPLAの兵士。兵士を見てからというもの、日に日に空爆がすごくなっていって、果物の木は焼けただれ、家も燃やされ、村に住むことはできなくなった。みんな追い立てられるようにエチオピアに逃げていったんだ。

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最初はItangと言う難民キャンプに行ったんだ。すごくいいところだったよ!まず、爆弾は降ってこない。学校もあったし、食べものももらえた。だけど、8歳の時、エチオピア国内の政変のせいで、Itangにいられなくなって、Dimmaというキャンプに移動させられたんだ。そこはひどかったよ。キャンプって言っても、塀なんてないんだ。ただの集落さ。周辺に住む部族に、攻撃される日々だった。薪を拾いに行く女の子はレイプされた。キャンプの中に住んでいたって、強盗に合った。

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キャンプには学校があって、クラスメートと遊ぶのが唯一の楽しみだった。サッカーしたり、レスリングしたり、とんぼ追いかけたりしたりしてた。今も友達だよ。Koangという子は、イスラエルに行ったって聞いてる。他の子達もみんなカナダ、ハルツーム、アジス、ああ、今は全然違うところにいるね。

僕が14歳のとき、おいしい話を聞いたんだ。「ある慈善団体が、アジスの学校に行かせてくれる」大きな家、きれいな服、かっこいい大都会。もう断然申し込まなきゃって思ったさ。少年兵士?そんなのはBentiuだけで、エチオピアではないよ。だから全然心配なんてしてなかった。(注:当時エチオピア-スーダン国境に少年兵士のキャンプがあったと国際社会では言われている)抽選に当たったときは嬉しかったなぁ。アジスに行ったら、本当に毎日すごかった!実はあまり勉強は得意じゃなくてさ、学校は好きじゃなかったんだけど、きちんとキレイな服もらえて、いい生活だったなぁ。

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でもその生活は長くなかった。僕がアジスに到着した4年後、ある日、いきなりエチオピア政府がアジスにいる全てのスーダン人を摘発したんだ。あの夜は本当、ショッキングだった。2-3棟の倉庫に沢山のスーダン人が押し込まれて、暴力ふるわれたんだ。3日間くらいだったと思う。拷問で男性1人と女性1人が死んだって話だよ。男への扱いは、本当ひどいもんだった。僕は18歳だったけど、背が低かったので、女性や子供達の中に隠れていたよ。空爆の時より、こっちの方が怖かった。

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実は、倉庫の後に連れて行かれたシャコーレという場所は、そんなに悪いところじゃなかった。食糧も、生活用品もきちんと配給された。さらにUNHCRによって「移住推奨」がされてて、海外に難民として逃げたい人は、支援してもらえたんだ。みんなこぞってチャンスを掴もうと応募しまくったよ。あの時、アメリカとかカナダに行った人たち、結構金持ちになってるって聞いてる。僕は抽選にもれてばかりで、すごく残念だった。

そのうちシャコーレにも居られなくなって、またDimmaキャンプに戻った。治安は相変わらず悪かったけど、友達に再会できたりしたし、そんなに不満はなかった。僕ももう大人になっていたしね。

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そうこうするうちに、2005年になって、終戦を迎えたんだ。すでにお父さん、お母さん達は、スーダンに戻っていた。「男なら戻ってこい!」って言われた。確かに早く帰らないといい土地は取られちゃうかもしれないし、Big manになるには基盤を築いていなければならない。腕試しだと思った。Pagakに来たのは、スーダンの入り口だったし、自分の血縁者も結構いたから。もしここでチャンスを得られなかったら、どんどん北上していこうと思ってた。ラッキーなことに仕事が見つかって、奥さんを1人、また1人ともらえて、やっぱり僕は結構ラッキーな人生みたいだ。

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え?何回引越ししたって?

6回、そんなに多くないよ。みんなそんなもんさ。

スーダン便り27号〈了〉
Written by Azusa CHIBA

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